おもな登場人物
小倉藩初代藩主 小笠原忠真(1596-1667)譜代大名

小笠原忠真 像(福聚寺 蔵)

碁石頭伊予札萌黄糸威段替丸胴具足
(小笠原忠真所用)(福聚寺 蔵)
小倉藩主になると「九州御目付」として、西日本の外様大名を監督しました。熊本藩主細川綱利の後見役も務めました。
福岡藩2代藩主 黒田忠之(1602-1654)外様大名

黒田忠之 像(福岡市美術館 蔵)

黒漆塗鯰尾形兜
(福岡市博物館 蔵)
秋月藩初代藩主 黒田長興(1610-1665)外様大名

鉄地黒漆塗律管脇立桃形兜
(朝倉市秋月博物館 蔵)
柳河藩2代藩主 立花忠茂(1612-1675)外様大名

碁石頭伊予札縫延丸胴具足
(立花家史料館 蔵)
第1幕「戦国次世代の挑戦」
1. 「御家」を継ぎ、「藩」を創る
戦国時代を勝ち抜いたカリスマ的な初代藩主の後を継いた2代藩主たちは、改易や転封、御家騒動などの危機にさらされ、幕府の城の建設工事(「公儀普請」)や軍事動員の負担を強いられました。彼らは幕閣に相談し、他の藩主と競争、連携して、幕府=将軍に対する忠誠を示しました。また分家を創出し、家臣団を再編成して、「御家」の継続と確立を図りました。さらに長い戦乱によって荒廃した地域社会の復興と再建に努め、そのための公的支配体制を構築しました。
このような「御家」と公的支配体制を合わせた独自な組織を「藩」と言います。戦国を勝ち抜いた初代藩主の後を継いだ2代目藩主たちが「藩」を確立し、社会の安定に大きな役割を果たしたのです。
このような「御家」と公的支配体制を合わせた独自な組織を「藩」と言います。戦国を勝ち抜いた初代藩主の後を継いだ2代目藩主たちが「藩」を確立し、社会の安定に大きな役割を果たしたのです。
2. 島原・原城を攻め落とす
寛永14(1637)年10月に天草で起こり、島原に拡大したキリシタン農民一揆は原城に籠りました。幕府は板倉重昌の総指揮のもと、九州の大名の子弟、細川光尚、有馬忠頼、立花忠茂などを動員し、鎮圧にあたりました。幕府軍は翌15年元日に原城を総攻撃しましたが失敗し、板倉は戦死しました。幕府は新たに松平信綱と戸田氏銕を派遣し、江戸に在った細川忠利、黒田忠之、鍋島勝茂、有馬豊氏、立花宗茂などに原城攻略を命じました。
福岡藩主黒田忠之は弟で秋月藩主の黒田長興、東蓮寺藩主の黒田高政とともに出陣し、他藩と連携・競争して、原城攻略に活躍しました。小笠原忠真は全軍の監視と支援のため、甥で中津藩主の小笠原長次、弟で杵築藩主小笠原忠知、同じく弟で龍王藩主松平重直とともに出陣しました。その際には、宮本武蔵が長次に随行して出陣しています。
福岡藩主黒田忠之は弟で秋月藩主の黒田長興、東蓮寺藩主の黒田高政とともに出陣し、他藩と連携・競争して、原城攻略に活躍しました。小笠原忠真は全軍の監視と支援のため、甥で中津藩主の小笠原長次、弟で杵築藩主小笠原忠知、同じく弟で龍王藩主松平重直とともに出陣しました。その際には、宮本武蔵が長次に随行して出陣しています。
[主な展示品]

「嶋原陣図御屏風(戦闘図)」朝倉市指定文化財
天保8(1837)年 斎藤秋圃 画 (朝倉市秋月博物館 蔵)
秋月藩第10代藩主黒田長元が島原・天草一揆の鎮圧200年を記念し、初代藩主の長興を顕彰するために作らせた六曲一双の屏風のうち、寛永15(1638)年2月27日~28日の原城総攻撃を描いた「戦闘図」です(ほかに「出陣図」があります)。内容は「嶋原一揆談話」などの記録に基づいていて、合戦図のなかでも傑作として知られています。

「宮本武蔵書状(有馬直純宛)」 寛永15(1638)年2月
(青梅市教育委員会 蔵)
原城落城直後、宮本武蔵(玄信)が日向国延岡藩主有馬直純の小姓衆に宛てた書状です。武蔵は、原城に立て籠もる一揆勢が投げる石に当たり脛を痛めた、と記しています。武蔵が大名である直純と親しいことが注目されます。直純の正室は本多忠政の息女国姫(家康の養女、栄寿院)で、忠真の正室五姫(円照院)の姉です。
3. 長崎を警備し、国を守る
寛永16(1639)年に幕府はポルトガル船の来航を禁止して、中国とオランダに限って、長崎で独占的に貿易をおこないました。同18年から福岡藩は佐賀藩と交代で長崎警備を担当しました。正保4(1647)年にポルトガル船が貿易再開を求めて長崎に来航すると、福岡藩は佐賀藩・熊本藩と警戒に当たり、小倉藩も協力しました。
小倉藩主小笠原忠真は寛文2(1662)年に「長崎御用」を命ぜられて、幕府の長崎奉行と合同で長崎の警備を指導・監督しました。享保元(1716)年に中国の密貿易船が北九州沖合に現れると、小倉藩は福岡藩・長州藩とともに撃退しました。
このように小倉藩や福岡藩をはじめ、北部九州・山口の諸藩は長崎警備を中心に国防を担って、江戸時代の「泰平」の実現に大きな役割を果たしました。
小倉藩主小笠原忠真は寛文2(1662)年に「長崎御用」を命ぜられて、幕府の長崎奉行と合同で長崎の警備を指導・監督しました。享保元(1716)年に中国の密貿易船が北九州沖合に現れると、小倉藩は福岡藩・長州藩とともに撃退しました。
このように小倉藩や福岡藩をはじめ、北部九州・山口の諸藩は長崎警備を中心に国防を担って、江戸時代の「泰平」の実現に大きな役割を果たしました。
第2幕「『博多藤四郎』と仲間たち」
1. 「名刀」の誕生―徳川吉宗の刀剣愛好
「享保名物帳」は8代将軍徳川吉宗の命により、本阿弥家13代当主光忠が提出したとされる名物刀剣の台帳です。原本は未発見ですが、2系統の写本が伝わります。相州五郎正宗、粟田口藤四郎吉光、郷(江)義弘の3刀工を重視し、狭義の「名物刀剣」はこの3刀工の作品を指します。享保名物帳により、刀剣(古刀)は工芸品としての地位を確立しました。
吉宗は一方で新刀の製作を奨励し、刀工の名簿を提出させました(享保諸国鍛冶御改)。また優れた刀剣を献上させ、刀工を招いて製作させました。
筑前国の刀工信国重包は享保6(1721)年、吉宗の命により、江戸芝浜御殿で刀を制作しました。吉宗から一葉葵を彫ることを許されて、帰郷後「正包」と名を改めました。
吉宗は一方で新刀の製作を奨励し、刀工の名簿を提出させました(享保諸国鍛冶御改)。また優れた刀剣を献上させ、刀工を招いて製作させました。
筑前国の刀工信国重包は享保6(1721)年、吉宗の命により、江戸芝浜御殿で刀を制作しました。吉宗から一葉葵を彫ることを許されて、帰郷後「正包」と名を改めました。
2. 吉光の名刀3口が揃い踏み
粟田口吉光・通称藤四郎は鎌倉時代中期の刀工で、数々の名刀を制作したことで知られています。
正保4(1647)年に黒田忠之の嫡子・黒田光之は正室に小笠原忠真の長女市松姫(のちの宝光院)を迎えました。婚礼に際して、黒田忠之は小笠原忠真に吉光の刀を贈りました。「博多藤四郎」です。
本展では「博多藤四郎」(国指定重要文化財)のほか、柳河藩主立花家の先祖が足利尊氏から拝領したと伝える刀(国宝)、旧犬山藩主成瀬家が澄宮(のちの三笠宮)に献上した刀(旧重要美術品)を合わせ、吉光作の名刀3口を揃って展示します。名刀の魅力を存分にお楽しみください。
正保4(1647)年に黒田忠之の嫡子・黒田光之は正室に小笠原忠真の長女市松姫(のちの宝光院)を迎えました。婚礼に際して、黒田忠之は小笠原忠真に吉光の刀を贈りました。「博多藤四郎」です。
本展では「博多藤四郎」(国指定重要文化財)のほか、柳河藩主立花家の先祖が足利尊氏から拝領したと伝える刀(国宝)、旧犬山藩主成瀬家が澄宮(のちの三笠宮)に献上した刀(旧重要美術品)を合わせ、吉光作の名刀3口を揃って展示します。名刀の魅力を存分にお楽しみください。
3. 「家宝」の形成
武士は本来戦士であって、合戦で手柄を立てることが第一の目標でした。それゆえ江戸時代の武士は先祖の軍功によって、「家」が発展・存続してきたと考えました。大名家では「藩祖」の功績を中心として、「御家」の歴史を編纂し、「藩祖」所用の武具を「家宝」と位置づけ、「御家」の再構築を図りました。
小倉藩主小笠原忠真は大坂夏の陣(1615年)で、父秀政と兄忠脩が戦死、自分も重傷を負いながら、徳川家の勝利に貢献し、譜代大名第2位の15万石を与えられました。小笠原家では毎年正月の鏡開きと五月の秀政の命日に、秀政が大坂夏の陣で着用した甲冑に拝礼する儀式が執行されました。
初代福岡藩主黒田長政と父如水は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕え、特に関ヶ原の戦い(1600年)で家康の勝利に貢献して、国持大名となりました。黒田家では信長・秀吉・家康との関わりを証明する古文書や関ヶ原の戦いの武具が重視されました。
小倉藩主小笠原忠真は大坂夏の陣(1615年)で、父秀政と兄忠脩が戦死、自分も重傷を負いながら、徳川家の勝利に貢献し、譜代大名第2位の15万石を与えられました。小笠原家では毎年正月の鏡開きと五月の秀政の命日に、秀政が大坂夏の陣で着用した甲冑に拝礼する儀式が執行されました。
初代福岡藩主黒田長政と父如水は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕え、特に関ヶ原の戦い(1600年)で家康の勝利に貢献して、国持大名となりました。黒田家では信長・秀吉・家康との関わりを証明する古文書や関ヶ原の戦いの武具が重視されました。